田中建設では、100年の歴史の中で歴史的建造物や神社仏閣をはじめ、さまざまな物件を施工してきました。
建設現場で起こった出来事や工事を通して分かった発見など、現場のストーリーをお伝えします。
2025年11月に竣工する英彦山神宮上宮(御本社)は、2022年6月から当社が主体工事を担当させていただいた建物です。
福岡県と大分県にまたがる英彦山に鎮座する神社で、福岡県唯一の「神宮」で、天之忍穂耳命が、その昔、鷹の姿をして東より現れた稲穂の神、農業神で知られることから、農業生産、鉱山、工場の安全の守護神また、勝運の神様として古来より崇敬されています。
工事内容については、施工事例でも紹介する予定です。
英彦山神宮の修復工事は、およそ3年半の月日をかけて行い、当社の宮大工約10名をはじめ、彫刻師と協力して木工工事を行いました。上宮(御本社)は、度重なる台風や地震等の影響で、老朽化しており、さまざまな部分の彫刻も傷んでいました。中でも、妻壁※は、それぞれの彫刻にも影響し、破損や消失しているものがあり、接木・矧木で修復していきました。
※妻壁(つまかべ)」……建物の短辺側にある壁のことで、特に切妻屋根の建物の三角の部分を指す。


[英彦山神宮(上宮) 結綿 消失前]
写真は、社殿の状態が良かった頃、英彦山神宮の上宮にあった結綿(ゆいわた)※と呼ばれる装飾彫刻を撮影したものです。中央に鬼の顔のような飾りが見えますが、これが消失しており、彫刻し直す必要がありました。
※結綿(ゆいわた)……大瓶束(たいへいづか)の下端に設けられ、虹梁(こうりょう)をはさむ部分に施される装飾彫彫刻。その形が真綿を束ねた形に似ていることが名称の由来。
当社と長年一緒に工事に関わっていただいている大川市出身の前川さんは、元々、欄間の彫刻師で、いろいろな神社仏閣の彫刻を担当していただいている方。今回の英彦山神宮上宮の修復工事も、協力いただきました。
その前川さんに今回の彫刻のことを聞くと、新事実が発覚。数年前に田中建設で木工工事を行った結綿の装飾と英彦山神宮の結綿の装飾がそっくりだというのです。似ていると思われる装飾は、佐賀市諸富町にある「光徳寺」というお寺でした。光徳寺は、開基 西願教師によって建立された浄土真宗のお寺です。元文4年(1739)3月に楼門を建立し、延享5年(1748)に本堂を修築。しかし、その後、失火のため全焼したため、嘉永元年(1848)本堂を再建したと記録されています。
参考[さがの歴史・文化お宝帳]より
https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=1651

[光徳寺 結綿]
こちらの写真が光徳寺の結綿を撮影したもの。微妙な違いはあるものの、彫刻を担当した前川さんによると、彫りの深さや形は確かに似ているといいます。
なぜ似ているのかの理由は、装飾についての詳細な記録までは残っていないため、定かではありません。しかし、英彦山神宮が天保13年(1842年)に、肥前藩主鍋島斉正(佐賀藩 鍋島直正)によって奉建されたものであることから、もしかすると佐賀藩御抱えの大工がどちらの施工にも関わっていたのでは?と当時の歴史と建設現場に思いを巡らせることができる発見でした。
現在、佐賀と福岡で行政区としては違うものの、もし、同じ宮大工が時を超え、同じように木工工事を担当していたとするなら……歴史を共に繋いだことを誇りに思います。


[新しく彫刻した英彦山神宮(上宮) 結綿]
おわりに
英彦山神宮の施工期間中、岡山からのお菓子が会社に贈られたことがありました。誰からかというと、田中建設の棟梁をはじめ宮大工らに御礼だといいます。
英彦山神宮上宮を目指し登山をしていた岡山からの参拝者が霧の中、遭難しかけていたところ、「トントントン」という田中建設の宮大工が打つ金槌の音を頼りに歩き、助かったということがありました。トロッコで一緒に下山でき、遭難を免れて本当によかったです。施工のため現場に行き、大工たちは仕事をしていただけですが、たまたまその音が人の命を助けることに繋がったなんて、思いもよらない出来事でした。
英彦山は「英彦山権現」として栄えた日本三大修験道の霊山。現在は主祭神を天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)とする、山岳信仰の拠点となっていることから、全国各地から登山での参拝客が訪れる場所としても知られています。
登山される方は、天候と安全に留意し、参拝されてください。

